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口を閉じてもふくろびる池袋

池袋村の南北にのびる丘に鎮座しこのあたり一帯を鎮守の社として崇められたお宮があったそうな。その池袋村の鎮守様は氏子である村の娘がよその土地に行くのを嫌うので池袋村ではなるべく村内に嫁をやるのだという話じゃ。そういえば池袋村の女を嫁にしたり、雇ったりすると夜になると不思議な出来事が次々におこるそうな。事件は本郷のかねやすをさらに半里ほど南にのぼったところにあっる商人家で起こったはなし。人手が足りなくて口利き屋から無口で働き者の住み込みの女中を1人やといましたところ、しばらくしてから丑三つ時近くになると地震でもないのに家がぐらぐら揺れて主人はビックリ、急いで外に飛び出してもあたりをみまわしてもまるで静かなものでした。きつねか狸のいたずらかと不思議に思いましたが、また数日すぎて今度は手のひらに乗るぐらいの石や割れたせともの、さらに土瓶などが次々に投げ込まれました。これにはご主人も閉口して、はてさてなんであろうと考えました。そうかなるほど今度奉公にきた娘は池袋村から来たのだったかと、娘は出身がばれて村に帰るしかなくなってしまうのでした。なんとこれらの騒動は大事な嫁さんとなる娘を失いたくないという池袋村の男衆の仕業だったとか。大小の多くの池で囲まれた池袋村はおたがいに交流が少なく、孤立的な集落には嫁いでくる娘さんも少なかったろう。この話は「池袋村の女」のたたたり伝説として広まったものです。
当時の池袋村は小さな集落ごとに生産性が高く1戸あたりの平均が米は1反(300坪)の田んぼからすくなくても7俵以上を収穫、畑では野菜作りなど、それに水も湧き、池もあることで人手さえあれば環境的には他の地域と交流しなくても生きていく力があったのです。
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江戸時代の池袋村の大きさ

「新編武蔵風土記稿」は、江戸幕府の昌平坂学問所が化政期(1804~29)の村々の状況をまとめた公的記録である。それに「池袋村」が「東西5丁、南北13丁」の細長い村で「戸数129、村高300石」とあり村としては街道にそって家並みがあったことが推測される。いまの距離に直すと幅545m、長さ1、418m当池袋平和通り商店街が南北に560mありますから残り858mで南の雑司ヶ谷村と、北は金井窪村、東は新田堀之内村、西は中丸村などにかこまれた中になります。池袋平和通り商店街の北側の端からさらに北に560m行くと金井窪村です。反対側の商店街の南端からさらに南に300mほど下ると雑司ヶ谷村になるわけです。当時の四面塔は村のはずれのさみしい場所であったでしょう。当時池袋村の中心はおのずと現在の商店街が村の中心として機能していたと想像できます。伊能忠敬の古地図をみてもこの事は推測できますとともに多く点在する池の大きさもかなりの面積をもって描かれています。商店街の中ほど「池袋の森」の入り口近辺より水がわき出て東のJRの線路の方へ流れ宝永年間に千川上水より引き入れた谷端川に合流しさらに下流の小石川の方へと流していったのです。当時の古地図と文献記録により「池袋」の地名は池が多く点在したこの地域から当然のように生まれたのだと考えます。また文化の面でも池が点在していたことで人との交流では特異な環境であったことも古くからのいいつたえなどでわかります。

折れ大根

むかし、池袋村は雑司ヶ谷村より高台に位置するために川が無くかわりに池が多くありました。葦原が広がり鳥たちも大勢集まってきます。池を埋め立てたところには大きな畑ができ見晴らしがいいので、野鳥の格好の狩場でした。これは将軍吉宗公が鼠山(ねずやま)へ鷹狩りにでかけていく道中でのお話です。馬上から周りの畑をながめていた吉宗公は、家来に「畑へ入って大根を折るでないぞ、作物にふれるでないぞ、わしを追ってこずともよい、みなにもそう伝えよ」というといきなり馬にムチをいれ、畑の中を走りだしました。家来たちがあっけにとられていると、大根をけちらし、広い畑をジグザグにかけぬけ、まるで乗馬の練習をしているかと思えるほどでした。戻ってくると、家来を呼び「名主を呼んでまいれ」と命じて馬をおり、運ばれた床几(しょうぎ)に腰をおろすと大きく肩で息をつきました。 やがて、身なりを整えあたふたとやってきた名主は、おそれいって地にひれ伏しました。 公方(くぼう)様によばれるなど始めてのことです。 どんなご沙汰があるのかおそろしさで身をかたくして待ちました。 家来は「もそっと前へ、声の届くほどに」 と、まねきましたが、名主はいよいよ小さくなってひれ伏すばかりです。 「そう、かたくならずともよい」 名主は公方さまのやさしい言葉につられ、かすれた声でやっと「は、はい」 と返事をしました。 「大根をいかほど折ったか数えよ。一本につき一文(いちもん)、百本では百文の代価をとらす」 「は、はい、ありがたいことでございます」夢かとも思える嬉しいお話に名主はほっとして体中の力がぬけていきました。「日照り続きでさぞ大変であろうのう」 言い残して、吉宗公は馬上の人になりました。 将軍の鷹狩りは、江戸町民のようすや田畑のできぐあいを知るよい機会です。 名君と誉れ高い吉宗公ですからこのあたりの作物や大根畑を見て、農家を助けようとわざと畑の中をジグザグに馬を走らせたのでした。村人一同、このありがたいお心に感謝し、その馬で通ったあとを「御成り七曲り」とよびました。この道は有り難い気持ちを代々忘れないようにと残し、今まで以上に畑仕事に励みました。この物語の場所が池袋村の当時の古地図に記載されています。現在その場所は池袋平和通り商店街をすこし南に下った繁華街の位置にありました。

池袋の地名のいわれ

池袋の地名のいわれは諸説ありますが、どうやらこの池袋平和通り一帯の地形的特徴から生まれたものと確信しました。江戸時代の伊能忠敬・江戸府内図に描かれた池袋村のなかに大きな池もしくは沼が多く点在しているのと共に家の近辺の木々や畑の畝の広がりを表しているような描写になっています。当然のことですが、これらの池もしくは沼は村ができる以前より存在していたでしょう。それが農耕技術の流入により一定の場所に定住する生活が生まれ、始めのころは血族だけの小集団であったのでしょうが、沼や池には魚や貝など自然に左右されずらい食物があり、畑では粟や稗などの作物がつくられたのでしょう。それらによりより多くの食料を生産し確保できた人々が
場所を選びながら群れることになっていきます。当然共同作業も行うでしょう。沼地の干拓には多くの人出が必要になり集団体制を維持するため30人ないし50人の単位でそこをまとめる長(おさ)ができ自然に村ができたのです。当時の周りは湿地帯もふくみ細かい水路によって各地域が分断されていて水の集まる場所、囲まれている場所の袋の場所があり、沼というよりはもっと小さな池が多く点在していた為に地名が「池袋」と自然に言われたのだと思います。言い伝えによりますと池袋の村において人を探す事は難しい、なぜならば隣村の人の情報が水路による分断により互いの情報が無いためなのだと、またそれにより自給自足の独自の共同体ができていたらしい。婚姻も狭い範囲のなかで行われていたために限られた娘をほかに奪われないようにしたという出来事が言い伝えとして残っている。当時の川柳に「瀬戸物や土瓶がみんな池袋」「池袋家鳴りをさせた罰で化け」「石投げをしてぼろの出る池袋」「下女が部屋振動こいつ池袋」「口を閉じてもふくろびるいけぶくろ」「男より女にたたる池袋」などとうたわれている。これらはまさに池袋の女を嫁にもらったり奉公にやとったらその家に禍が起きるといったことが現実に起きた事なのです。当時は若い娘が江戸にあこがれ奉公にいきそこから嫁にいくことがあったのでしょう。当時の江戸とは本郷のかねやすまででしたから「本郷もかねやすまでが江戸の内」といって池袋から1里半の距離で歩いても一時間ちょいで行けたのでした。これらの記述からも当時の池袋村の特異性が伝わってきます。

古道だった商店街の歴史

文化14年(1817年)伊能忠敬・江戸府内図に池袋村の記載と街道が描かれています。地図には多く点在した大きな沼や池が描かれ村並みや当時この地域を治めていた方々の名も記載されています。またさらに古い時代の絵地図には、雑司ヶ谷道(当平和通り商店街が街道の一部)は普通に描かれているが、もう一方の分岐した街道は当時はまだ整備されていないまま描かれています。また街道に突き当たる交差点はまさに古道の証をいまに伝える道でもあります。いずれにせよ道が本格的に整備されたのは平安時代の末期から始まり鎌倉時代には完成したのだと考えます。古い街道はほとんど直線的に流れています。地形を見ても高低差にはあまり関係がないように感じます。当時の連絡は早馬にて行われたため、真っすぐな道が求められ道の交差部分では馬同士がぶつからないようにする為特殊な形状にしたのでしょう。緩やかなカーブの先に交叉する道の壁が見えれば馬のスピードは自然と落ちるからです。それにより馬どうしの衝突は避けられます。またその部分には当時行先名を記した一里塚のような石塔が存在していたはずです。開発によりなくなってしまったものの地域の古いお寺や神社に預けられたものもきっとあるはずです。調べればさらに詳しい様子が見えてくると思います。鎌倉時代が終わり室町時代以降政治の中心は京都に移り変わりました。南北朝時代を越え江戸に都が移るまでの間に鎌倉時代の街道は当時からの流通の流れに乗れた街道以外は、多少の痕跡を残しながら開発の為に消滅していったのだと考えます。江戸に幕府ができ参勤交代の仕組みができるころには当時の流通の邪魔にならない近道が大規模に整備されていったのだと感じます。またその証拠に近代に車の為の街道がつくられる時も直線的な近道が構築されますが、それが何故か旧街道に沿った道の流れになってしまうのです。新しい道を作るのですから既設の街道に合わせる必要はないのですが、流通の運搬をになった馬が車に変わっただけであり不必要な宿場は飛び越えて近道が選ばれることになります。それにより道は車専用高速道路として、旧道の一部の場所は地域の商店街へと発展してきたのです。

蝶と家紋について思う事

s-アサギマダラ蝶
揚羽蝶の家紋
蝶の星の家紋
古来より人々は次々と姿を変えていく幼虫が突然形の違うサナギになり死を想像させる時を過ごし,さらにそこから美しい蝶に変身して甦る姿をみて不死の力を持つものとして畏怖の念を感じていたのではないでしょうか。また優雅に花にのみ舞う姿をみて平安時代の人々は宗教的な生き方も感じたのだと思う。平安時代の貴族の牛車などに文様として使用したり戦国武将の陣羽織に蝶の模様が描かれたり、また武家の家紋としても使用されてきたのもこれらの背景があるからです。代表的な家紋に「揚羽蝶」があるが、かわったものに「蝶の星」というものがあり、家紋というよりも現代アートのような家紋です。見てすぐに感じたものは名前から蝶であるアサギマダラの体の文様を取り入れ不死の力を身に着けることで子孫繁栄を願ったのだと感じてしまいました。

誰もが住みよい街を目指して

今日、豊島区地域ケア会議に参加した時の表題です。もし今、豊島区に巨大地震が来たら? 現在は、商店街としては何もしてあげることはできないと思う。しかし将来は出来ることが山ほどある。電気が来なくても道を明るく照らす様にすることはできます。街路灯の一部をハイブリッドにして、太陽の光と風力で生まれた電気を充電して夜間に使用することで通りを明るく照らす様にすることです。また、人口が減ることにより、これからの商店街は地域の防災拠点の役目も担うようになるでしょう。商店街が災害時を想定して備蓄管理をしているならば、災害時商店のもつ備蓄倉庫的役割を平常時に協定を取り交わしておくくことで商店街が取りまとめて被災者に必要なものをスムーズに手渡すことができるようになるのです。また都会で1人で暮らす元気なお年寄りや第二の人生を歩む人にとっての心休める居場所を提供して、商店街と協働で美しい空間を創造し、楽しい生きがいを育む場所にし、お互いがこころ豊かな毎日を過ごせるよう進んでいけたらと思っています。これからの商店街は社会貢献活動にも目を向けていかなければいけないのだとも考えています。それぞれの持つ小さな力を一つに束ね大きな目標に向かう原動力を地域商店街が担うのです。ガーデニングにより公園を花園に、趣味を生かして教室で指導したり、手作りのものをフリーマーケットで販売もしくは交換したり、地域の資源は無限のように存在します。消防、警察、医師など公共的な職業による予防講習などの開催は特に必要でしょう。毎日が待ち遠しいイベントになり、来街者が増えることで、ここにあってほしいと求められる新店舗が生まれると思っています。そうした商店街になれるよう努力していきます。

春のイベント

3月16日(月)から3月22日(日)までですが、最終日の22日に応募からえらばれたキャラクターの表彰式を行うつもりです。結果は前もって当選者にはご連絡いたしますが、一度直にお会いしたいものです。その節はよろしくお願いいたします。
16日から21日までは、空き店舗を借りて、情報発信基地をつくります。その中で当商店街の歴史と池袋の森との関係を展示します。

イベントに向けて

3月のイベントの準備で大忙しです。フラッグのデザインも早急に決めなければなりません。今は樹木しりとりの図鑑作成をしているところです。46枚の内残り20枚になりました。木の名前のしりとりですから難易度は高くなります。まわりりながら勉強をすれば終わったころには植物ものしり博士になっています。

古い街道の調査

高田馬場の戸塚村から面影橋を渡り南蔵院を右手に見ながら真北に向かい、少し東に位置する雑司ヶ谷村の鬼子母神・法明寺から少し離れた道を北上、江戸時代にできた池袋村の四面塔を越えてしばらくいくとゆるやかに曲がる丁字路に突き当りそこをさらに北に行くと金井窪村から板橋宿に出る。この道は文化14年(1817年)の伊能忠敬・江戸府内図を参考にしたものです。古い時代の道は狭く基本的に高台に道は造られました。高台もしくは尾根であれば雨による被害が少ないので、通行に適していたからでしょう。とうとう室町以前の道は江戸の頃には忘れられた道になってしまったのでした。しかしこのように残っている道もあちらこちらにあるのですから自分たちの住んでいる地域も調べてみてはどうでしょう。いままで判りずらかったのは、幅の広い鉄道が通りを斜めに分断した為なのですが、他の文献には雑司ヶ谷道と記載があります。当時板橋宿に行くのには雑司ヶ谷村からは、現在の平和通りを通るのが一番近道になります。。




運営組合より
アゲハとトンボを飛ばそう

東西デッキ構想

東口と西口を線路の上でつなぎ池袋のシンボルとして創造する。地上デッキは避難路兼イベント広場の要素を併せ持つ商業施設にする。イベント広場では巾40m両側に屋台程度の小さな店舗(飲食屋台やお土産屋)を数多く出店させる、例えばイタリアフィレンツェのベッキオ橋の店舗風に展開する。
イベント広場では長期の出店を可能にさせる(例えば30日間)例えばそこにドイツのミュンヘンのオクトーバフェストとか
フランスのストラスブールのクリスマスマーケットなどを国際交流都市豊島区に呼び込む。イベント広場が池袋の中心にできたら世界の観光客を呼び込むことが可能になります。イベントがないときは皇居の外苑のようにただ広々とした空間でもよいが、
出来るだけシンプルにして癒しの空間にする。イルミネーションを飾れば若い人が集まるデートスポットに変身させることもできます。

平和通りの歴史

池袋平和通りの歴史を調べていて驚いています。古老に聞いてもせいぜい大正時代の話しか聞けませんでしたが、調べてみると江戸時代は雑司ヶ谷道(鎌倉街道なかつ道・吾妻鏡でいう中路)の名前で主道路として使われていて王子道とのつながりがあり将軍が近くの鼠山(ねずみやま)の御鷹狩場に行く際に通った街道であり御成り七曲りと明記された道が続いています。伊能忠敬の編纂した地図にこの街道が記載されていてまさにその一部分に平和通り商店街があるのです。調べて分かったことはブログでは書ききれませんので、商店街小冊子を発行するのでその中でお知らせします。それを3月のイベントで配布します。池袋の名の言われも諸説ありますが、伊能忠敬の地図をみますと測量された時代の池袋村の中心は当商店街から始まり南のニコニコ動画館があるパルコあたりまでのようです。絵地図のなかの家並みが描かれた様子により推測しました。「南向茶話」によると鎌倉古道は雑司ヶ谷村から東に向きを変え滝野川村を通り中山道を横切り豊島村から千住に行く道筋だったそうです。雑司ヶ谷道は雑司ヶ谷の鎌倉街道分岐から板橋宿につながる最短の道です。
プロフィール

池袋の森ピース君

Author:池袋の森ピース君
池袋平和通り商店街で、「ナミアゲハ蝶とトンボを育てて飛ばそう!」の活動や江戸時代池袋村の中心であった商店街の歴史調査報告の様子をお知らせします。
主に活動内容や地域の情報を綴ります。
興味のある方は、ちょっと立ち寄ってのぞいて見てください。

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