池袋御嶽神社節分祭
2月3日午後3時から池袋村の鎮守様である御嶽神社神楽殿において豆まき・お餅まきが開始されます。週間予報では天気は晴れの予定ですので大勢の方のおいでをお待ちしています。
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飛べない蝶
蛹から正常に孵ることができなかった蝶がいる。殻から体を半分しか出すことができず翅がのびなかったのだ。自然界では蜜が吸えないので生きることは難しい、多分他の昆虫の餌になってしまうかバクテリアによって土に帰ってしまうでしょう。翅のちじれた蝶は翅以外は正常なので与えれば蜜を吸うことができる。今目の前でおいしそうに蜜を吸っているが果たしていつまで生きることができるのか心配です。
新年会
新年会は都議・区議・地域の企業・町会・信用金庫。商店街・宗教団体・会員のかたがたに感謝とお礼をする場だと思っています。お忙しい中当商店街に顔をだしていただけるだけでもありがたいと思っておもてなしをしたいと思います。
都市再生緊急整備地域の指定
都市再生特別措置法が政令の一部改正により、池袋駅周辺地域が都市再生緊急整備地域及び特定都市再生整備地域として生まれ変わることになります。これにより池袋駅・東池袋駅周辺における都市開発事業が加速度を増すことになるでしょう。しかし西地区における開発指定地域はかなり狭く、将来を見据えたときに東口との格差を感じ得ません。いままさに20年後の姿をイメージしたものを今どのように行動して実現に結びつけたら良いかを考え実行する時です。
アゲハ2頭目誕生
今年は2頭目が1月22日午前9時に誕生3時間かけて翅を乾かします。4日前に誕生したナミアゲハは現在も元気ですが、まだ外は寒いためにハウスに放すことができません。現在は毎日2回ほど蜂蜜を薄めた食事をしています。
池袋の女
池袋村(池袋平和通りが中心)の南北にのびる西の丘に鎮座しこのあたり一帯を鎮守の社として崇められたお宮(池袋御嶽神社)があったそうな。その池袋村の鎮守様は氏子である村の娘がよその土地に行くのを嫌うので池袋村ではなるべく村内に嫁をやるのだという話じゃ。そういえば池袋村の女を嫁にしたり、雇ったりすると夜になると不思議な出来事が次々におこるそうな。事件は本郷のかねやすをさらに半里ほど南にのぼったところのある商人家でおこったはなし。人手が足りなくて口利き屋から無口で働き者の住み込みの女中を1人やといましたところ、しばらくしてから丑三つ時近くになると地震でもないのに家がぐらぐら揺れて主人はビックリ、急いで外に飛び出してもあたりをみまわしてもまるで静かなものでした。きつねか狸のいたずらかと不思議に思いましたが、また数日すぎて今度は手のひらに乗るぐらいの石や割れたせともの、さらに土瓶などが次々に投げ込まれました。これにはご主人も閉口して、はてさてなんであろうと考えました。そうかなるほど今度奉公にきた娘は池袋村から来たのだったかと、娘は出身がばれて村に帰るしかなくなってしまうのでした。なんとこれらの騒動は大事な嫁さんとなる娘を失いたくないという池袋村の男衆の仕業だったとか。大小の多くの池で囲まれた池袋村はおたがいに交流が少なく、孤立的な集落には嫁いでくる娘さんも少なかったろう。この話は「池袋村の女」のたたたり伝説として広まったものです。
当時の池袋村は小さな集落ごとに風習が違い、畑では大根作りなど、それに水も湧き、池もあることで人手さえあれば環境的には他の地域と交流しなくても生きていく力があったのです。
当時の池袋村は小さな集落ごとに風習が違い、畑では大根作りなど、それに水も湧き、池もあることで人手さえあれば環境的には他の地域と交流しなくても生きていく力があったのです。
池袋村の様子
池袋村は、江戸時代から人も少なく村のまわりを森で囲まれ低地では葦原や池が多く点在していたところで徐々に開拓されてきた場所で御鷹部屋御用屋敷や鷹狩り場がとなり村に広がっていました。村の歴史は戦争による大火災により資料の喪失を招きました。それによって今に伝わる文献の少なさや発見の難しさははかり知れません。区が編纂した資料を探しひも解くことから始めるのですが、文字の翻訳や解読はあまりに難しすぎます。今は絵図や古地図に描かれた当時の背景に筆の動きを感じながら思いをはせることしかできません。今私たちが暮らしている地域の証を知ることから興味をもってもらい愛着をもって生活していくことがこの街を育てることに他なりません。気が付いた今からが街づくりの始まりです。
池袋地名ゆかりの地
「さてこの村を池袋と名付し事は大昔から夥しい池があったことによってである。」といい「昔より順をおって埋まっていったけれど今もなお300坪以上もあるだろうか」と続いている、そのあとで「池の西の果ては池袋と雑司ヶ谷との村境にあるところではいつもほとばしる様に湧きだし流れている。この池は今は雑司ヶ谷の中にある、それであるのに池袋村の土地は高く池の水を引くことが困難だ」との記述である。江戸時代の文化(1804~1818)に隠居の十方庵が見聞した事を「遊歴雑記」に覚書した内容である。このことから池袋の名前の由来は雑司ヶ谷に端を発していないのは明らかである。従って池袋駅南口のメトロポリタン側にある丸池跡の「池袋地名ゆかりの地」は当時まさに雑司ヶ谷村であるので地名発祥ではないと考えます。同時代にも当池袋平和通り中央あたりからも水が湧き出て川となり石橋の下を流れていたということが明らかになっています。時代を経てもまだ水源として機能していたのでしょう。湧水であれば飲料に適していたと思われます。その近辺は昔には小さな牧場もありました。
今年初めてのナミアゲハ誕生
1月18日雪の降る寒い朝にナミアゲハが今年初めて誕生しました。小振りな春型タイプになります。昨年は屋上ハウスケースの中で1月26日にその年初めてのナミアゲハが誕生しています。今年は越冬サナギを室内にて管理していたので早めに春を感じたのでしょう。早速蜂蜜を薄めたものを与えまして今は障子の影で休んでいます。昨年は屋上ハウスの中で12月23日に最後の越冬サナギが誕生し、今もレモンの枝影で休んでいて4月までには蝶になるでしょう。今回の誕生は室温25℃の環境に春の訪れを感じたためです。もう少し羽化を遅らせる為に涼しい場所に残り10頭の蛹を移動します。
雪が降る
通りには窓をななめに下りた牡丹雪が積もっている。時々シャーという車の通過する音が響く、天気予報通り朝には5センチ以上積もっているかもしれない。特に閉店したシャッターの前は融けない雪でしばらくは歩きずらいだろう。みんなはどのような道具を持って雪を寄せるのだろうか、雪で滑りやすい場所は早めの処理で怪我のない様に気を付けてほしい。
西口まちかど回遊美術館展示イベント
今年5月19日(木)から22日(日)までの4日間「池袋の森」にあるログハウスを利用したアート展示会場で興味ある作品を楽しみながら緑を満喫していただけたらと思っています。これから公園課とも相談しながら進めていきたいと思っています。
シンギュラリティと30年後の商店街
消滅可能性行政区豊島区といわれてからの頑張はたいしたものです。都市づくりのコンセプトに国際アート・カルチャーを取り入れ文化ビジョンの発信を世界に先駆けてしていこうという試みは2045年問題にもつながっていく良い取り組み方だと思います。美の追求と創造することにより影響しあう文化を築くことで明るい将来が見えてくる。人は本物の体験をするためには努力を惜しまないしそのことがまた感動を増幅させることになる。今のままで変化しなければ20年後・30年後の商店街は無くなる気がするのだが、恐ろしいことに世界は経験したことのないような技術革新の波にのまれていく。
豊島区国際アート・カルチャー特命大使認証式
「国際アート・カルチャー都市としま」実現の為豊島区が豊島区民の応援団として600名以上の特命大使を認証しました。4年後のオリンピックを見据えた素晴らしいことだと思います。豊島区をイベントであふれる空間に生まれ変わらせようとの仕組みつくりに他なりません。
商店街空き店舗リニューアルイノベーション
昨年から商店街再生の切り札として始まっているのが再生イノベーション事業です。官民共同で行うことが成功の近道だと思う。今商店街は地域の人たちと生きることに重きを置くようになってきた。お客様の為にあり共に暮らす場所、共に生き共に働く場所にもなり地域に住んでいる人たちの身近な存在としての役割を果たすことが求められている。今後ますます高齢化が進む中で高齢者が安心して楽しく生活できる空間が不可欠である。商店街がこれからも地域に根ざす限り自分たちに合った再生イノベーションの発見につながるのではないでしょうか。
池袋村古地図を読み解く
年代不詳の古い時代の池袋村絵地図には、雑司ヶ谷道(当平和通り商店街が街道の一部)は一直線に描かれているが、もう一方の分岐した小石川道街道は当時はまだ整備されていないまま描かれています。また街道どうしが突き当たる交差点はまさに古道の証をいまに伝える道でもあります。いずれにせよ道が本格的に整備されたのは平安時代の末期から始まり鎌倉時代には完成したのだと考えます。古い街道はほとんど直線的に流れています。地形を見ても高低差にはあまり関係がないように感じます。当時の連絡は早馬にて行われたため、真っすぐな道が求められ道の交差部分では馬同士がぶつからないようにする為特殊な形状にしたのでしょう。緩やかなカーブの先に交叉する道の壁が見えれば馬のスピードは自然と落ちるからです。それにより馬どうしの衝突は避けられます。またその部分には当時行先名を記した一里塚のような石塔が存在していたはずです。開発によりなくなってしまったものの地域の古いお寺や神社に預けられたものもきっとあるはずです。調べればさらに詳しい様子が見えてくると思います。鎌倉時代が終わり室町時代以降政治の中心は京都に移り変わりました。南北朝時代を越え江戸に都が移るまでの間に鎌倉時代の街道は当時からの流通の流れに乗れた街道以外は、多少の痕跡を残しながら開発の為に消滅していったのだと考えます。江戸に幕府ができ参勤交代の仕組みができるころには当時の流通の邪魔にならない近道が大規模に整備されていったのだと感じます。またその証拠に近代に車の為の街道がつくられる時も直線的な近道が構築されますが、それが何故か旧街道に沿った道の流れになってしまうのです。新しい道を作るのですから既設の街道に合わせる必要はないのですが、流通の運搬をになった馬が車に変わっただけであり不必要な宿場は飛び越えて近道が選ばれることになります。それにより道は車専用高速道路として、旧道の一部の場所は当時の道幅を残したまま地域の商店街へと発展してきたのです。その一つが現在の池袋平和通り商店街なのです。
池袋で1番歴史の古い商店街が池袋平和通り商店街
「新編武蔵風土記稿」は、江戸幕府の昌平坂学問所が化政期(1804~29)の村々の状況をまとめた公的記録である。それに「池袋村」が「東西5丁、南北13丁」の細長い村で「戸数129、村高300石」とあり村としては街道にそって家並みがあったことが江戸時代の伊能忠敬・江戸府内図に描かれています。いまの距離に直すと幅545m、長さ1、418m当池袋平和通り商店街が南北に560mありますから残り858mで南の雑司ヶ谷村と、北は縄文時代の池袋貝塚を越えて金井窪村、東は新田堀之内村、西は中丸村などにかこまれた中になります。まさに池袋平和通り商店街は池袋村の中心に位置した街道560mであり、北側の端からさらに北に560m行くと金井窪村です。反対側の商店街の南端からさらに南に300mほど下ると雑司ヶ谷村になるわけです。当時の四面塔は村のはずれのさみしい場所であったでしょう。当時池袋村は現在の商店街の位置を中心として機能していたと想像できます。伊能忠敬の古地図をみても知行主の記載場所によりこの事は推測できますとともに多く点在する池の大きさもかなりの面積をもって描かれています。商店街の中ほど「池袋の森」の入り口近辺より水がわき出て平和通りに架けられ石橋をぬけて東のJRの線路の方へ流れ宝永年間に千川上水より引き入れた谷端川に合流しさらに下流の小石川の方へと流れていったのです。当時の古地図と文献記録により「池袋」の地名は池が多く点在したこの地域から当然のように生まれたのだと考えます。また文化の面でも池が点在していたことで人との交流では特異な環境であったことも古くからのいいつたえなどでわかります。
池袋の地名のいわれは諸説ありますが、どうやらこの池袋平和通り一帯の地形的特徴から生まれたものと思われます。江戸時代の伊能忠敬・江戸府内図に描かれた池袋村のなかに大きな池もしくは沼が多く点在しているのと共に家の近辺の木々や畑の畝の広がりを表しているような描写になっています。当然のことですが、これらの池もしくは沼は村ができる以前より存在していたでしょう。それが農耕技術の流入により一定の場所に定住する生活が生まれ、始めのころは血族だけの小集団であったのでしょうが、沼や池には魚や貝など自然に左右されずらい食物があり、畑では粟や稗などの作物がつくられたのでしょう。それらによりより多くの食料を生産し確保できた人々が場所を選びながら群れることになっていきます。当然共同作業も行うでしょう。沼地の干拓には多くの人出が必要になり集団体制を維持するため30人ないし50人の単位でそこをまとめる長(おさ)ができ自然に村ができたのです。当時の周りは湿地帯もふくみ細かい水路によって各地域が分断されていて水の集まる場所、囲まれている場所の袋の場所があり、沼というよりはもっと小さな池が多く点在していた為に地名が「池袋」と自然に言われたのだと思います。言い伝えによりますと池袋の村において人を探す事は難しい、なぜならば隣村の人の情報が水路による分断により互いの情報が無いためなのだと、またそれにより自給自足の独自の共同体ができていたらしい。婚姻も狭い範囲のなかで行われていたために限られた娘をほかに奪われないようにしたという出来事が言い伝えとして残っている。当時の川柳に「瀬戸物や土瓶がみんな池袋」「池袋家鳴りをさせた罰で化け」「石投げをしてぼろの出る池袋」「下女が部屋振動こいつ池袋」「口を閉じてもふくろびるいけぶくろ」「男より女にたたる池袋」などとうたわれている。これらはまさに池袋の女を嫁にもらったり奉公にやとったらその家に禍が起きるといったことが現実に起きた事なのです。当時は若い娘が江戸にあこがれ奉公にいきそこから嫁にいくことがあったのでしょう。当時の江戸とは本郷のかねやすまででしたから「本郷もかねやすまでが江戸の内」といって池袋から1里半の距離で歩いても一時間ちょいで行けたのでした。これらの記述からも当時の池袋村の特異性が伝わってきます。ちなみに嘉永7年(1854年)ころは北側、重林時近辺の谷端川沿いの池袋村では水田が多く耕作され南には畑が広がりここの大根畑での将軍吉宗に関する民話と御成り七曲りと名のついた当時の道も絵地図で見ることができます。池袋の名で一番古い池袋平和通り商店街は現在でも形をかえずに残っている通りであります。板橋みちとも雑司ヶ谷みちとも記載されて人々が往来していた庶民の街道であったことを記憶にとどめてこれからも発展していきます。
池袋の地名のいわれは諸説ありますが、どうやらこの池袋平和通り一帯の地形的特徴から生まれたものと思われます。江戸時代の伊能忠敬・江戸府内図に描かれた池袋村のなかに大きな池もしくは沼が多く点在しているのと共に家の近辺の木々や畑の畝の広がりを表しているような描写になっています。当然のことですが、これらの池もしくは沼は村ができる以前より存在していたでしょう。それが農耕技術の流入により一定の場所に定住する生活が生まれ、始めのころは血族だけの小集団であったのでしょうが、沼や池には魚や貝など自然に左右されずらい食物があり、畑では粟や稗などの作物がつくられたのでしょう。それらによりより多くの食料を生産し確保できた人々が場所を選びながら群れることになっていきます。当然共同作業も行うでしょう。沼地の干拓には多くの人出が必要になり集団体制を維持するため30人ないし50人の単位でそこをまとめる長(おさ)ができ自然に村ができたのです。当時の周りは湿地帯もふくみ細かい水路によって各地域が分断されていて水の集まる場所、囲まれている場所の袋の場所があり、沼というよりはもっと小さな池が多く点在していた為に地名が「池袋」と自然に言われたのだと思います。言い伝えによりますと池袋の村において人を探す事は難しい、なぜならば隣村の人の情報が水路による分断により互いの情報が無いためなのだと、またそれにより自給自足の独自の共同体ができていたらしい。婚姻も狭い範囲のなかで行われていたために限られた娘をほかに奪われないようにしたという出来事が言い伝えとして残っている。当時の川柳に「瀬戸物や土瓶がみんな池袋」「池袋家鳴りをさせた罰で化け」「石投げをしてぼろの出る池袋」「下女が部屋振動こいつ池袋」「口を閉じてもふくろびるいけぶくろ」「男より女にたたる池袋」などとうたわれている。これらはまさに池袋の女を嫁にもらったり奉公にやとったらその家に禍が起きるといったことが現実に起きた事なのです。当時は若い娘が江戸にあこがれ奉公にいきそこから嫁にいくことがあったのでしょう。当時の江戸とは本郷のかねやすまででしたから「本郷もかねやすまでが江戸の内」といって池袋から1里半の距離で歩いても一時間ちょいで行けたのでした。これらの記述からも当時の池袋村の特異性が伝わってきます。ちなみに嘉永7年(1854年)ころは北側、重林時近辺の谷端川沿いの池袋村では水田が多く耕作され南には畑が広がりここの大根畑での将軍吉宗に関する民話と御成り七曲りと名のついた当時の道も絵地図で見ることができます。池袋の名で一番古い池袋平和通り商店街は現在でも形をかえずに残っている通りであります。板橋みちとも雑司ヶ谷みちとも記載されて人々が往来していた庶民の街道であったことを記憶にとどめてこれからも発展していきます。
区商連新年賀詞交歓会について
豊島区商店街に関係する各代表・各行政・各大手ビル会社関連店舗さらに地域代表の方々並びに区議団・都議・国会議員総勢243名が会場に集い行われました。参加している商店街の多くが年内繁盛を目標にしていました。しかし景気に関しては先行き不透明で申年である今年は賑やかな争いごとが多いのかも知れません。国内では決め事が多い年でもあります。商店街の各個店の方々も政治に関心を持ち日本の将来しいては子供の未来に希望が持てるよう人任せにしない選挙を心がけてください。今年から18歳からの選挙が始まりますがネットの世代でもあり若い力を信じましょう。
平成28年豊島区新年名刺交換会
今年は1500名ほどの参加があったそうです。正月なので舞台では寿獅子舞を披露、能楽師和泉流狂言方の野村萬豊島区名誉区民による新年のあいさつで今年は猿年なのと自分が4歳のときに靭猿(うつぼさる)を演じたのを思いだし、めでたい猿歌を朗々とうたって場を喜びと感謝の気持ちをこめ〆ていただき清々しい開会のあいさつとなりました。また東京音楽大学の四重奏によるカノンから愛のテーマまで8曲を聴かせていただき大変素晴らしいものでした。さらに日頃お世話になっている方々に対しては有意義な新年のあいさつの場にさせていただきました。
悩み多き商店街
環境整備において都市型商店街では24時間、昼、夜の両方の環境整備を考えることが求められる。会員もしかり、生活に合わせた三者街づくり会議においては、お互いの立場や考え方のすり合わせが重要で、事務局はお互いの思いをくみ理解を深める為の努力が必要になる。また昼夜の景色の違いにも配慮し、特に昼は全体の色調と統一感が重要だと思うし、夜はほとんど光の演出により雰囲気が変わるので、昼間と夜間における商店街全体のテーマがないといけないのではないかと思ってしまう。
1月1日から商店街の営みが始まっている場所
コンビニは1年中休みなし、池袋平和通り商店街のなかには全部で4店舗ありますので、買い物ではとても便利な通りだと思う。
4店舗すべて店名が違うが、セブンイレブン、とローソンの2店は利用者が多くいつも忙しそう。それに正月期間はアルバイトも含め人繰りは大変だと思う。夕方、夜、夜中、朝方と明るくなった街路灯はコンビニのお客様に安心と安らぎをを提供していると感じている。
それにより少しでも売り上げに貢献できたらとてもうれしい。
4店舗すべて店名が違うが、セブンイレブン、とローソンの2店は利用者が多くいつも忙しそう。それに正月期間はアルバイトも含め人繰りは大変だと思う。夕方、夜、夜中、朝方と明るくなった街路灯はコンビニのお客様に安心と安らぎをを提供していると感じている。
それにより少しでも売り上げに貢献できたらとてもうれしい。
謹賀新年
新年明けましておめでとうございます。
今年は穏やかな冷たい空気に包まれて年が明けました。
ここ池袋平和通り商店街366日の最初の1日が明るい街路灯に見守られ始まりました。
今年も皆様のご多幸をこころより祈念申し上げます。
今年は穏やかな冷たい空気に包まれて年が明けました。
ここ池袋平和通り商店街366日の最初の1日が明るい街路灯に見守られ始まりました。
今年も皆様のご多幸をこころより祈念申し上げます。
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