江戸時代の池袋村の大きさ
「新編武蔵風土記稿」は、江戸幕府の昌平坂学問所が化政期(1804~29)の村々の状況をまとめた公的記録である。それに「池袋村」が「東西5丁、南北13丁」の細長い村で「戸数129、村高300石」とあり村としては街道にそって家並みがあったことが推測される。いまの距離に直すと幅545m、長さ1、418m当池袋平和通り商店街が南北に560mありますから残り858mで南の雑司ヶ谷村と、北は金井窪村、東は新田堀之内村、西は中丸村などにかこまれた中になります。池袋平和通り商店街の北側の端からさらに北に560m行くと金井窪村です。反対側の商店街の南端からさらに南に300mほど下ると雑司ヶ谷村になるわけです。当時の四面塔は村のはずれのさみしい場所であったでしょう。当時池袋村の中心はおのずと現在の商店街が村の中心として機能していたと想像できます。伊能忠敬の古地図をみてもこの事は推測できますとともに多く点在する池の大きさもかなりの面積をもって描かれています。商店街の中ほど「池袋の森」の入り口近辺より水がわき出て東のJRの線路の方へ流れ宝永年間に千川上水より引き入れた谷端川に合流しさらに下流の小石川の方へと流していったのです。当時の古地図と文献記録により「池袋」の地名は池が多く点在したこの地域から当然のように生まれたのだと考えます。また文化の面でも池が点在していたことで人との交流では特異な環境であったことも古くからのいいつたえなどでわかります。
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